助六の首塚
2012.11.11(日)、般若寺の本堂となっている建物の持ち主だったという福田与惣左衛門助六の首塚を見に行ってきました。
伝承では、宍塚の佐野某の妻は、飯田の出で、助六の妻の妹であった。その縁で、一揆の首謀者として助六が処罰され、福田家が法に従って欠所と成って、家屋は新築して僅か三年で解体となったとき、この解体した家屋を買い受け、施主と成って般若寺を再建した、とされています。(故佐野邦一さんの「古老が語る宍塚の歴史」)
また、10月16日の宍塚の古民家についての学習会で、講師の安藤邦廣先生(筑波大)のお話しでは、移築されたといわれる般若寺の本堂は、書院造で、その構造や欄間などの様子から、寺院として建てられたものではなく、柱の太さから見ると、相当の豪農の家だったと思われるとのことでした。
これらの話を確認するのが目的です。
場所は、かすみがうら市下佐谷で、現在、ご子孫の方は、果樹園を営んでいらっしゃいました。伝承資料などをお渡ししてお話を伺いました。
前にある丸い石が首塚
故佐野邦一さんの「古老が語る宍塚の歴史」では、当時の当主の妻の姉であったとされる助六の母については、伝承のとおり、飯田の酒井某の娘とされており、法名もあっていました。
ご子孫の福田さんに、当時の建物について移築したとの話が伝わってないか伺ったのですが、記録は残っていないようです。
また、現在のお宅も見せていただきましたが、江戸末に建て替えているそうです。門の方は、数百年経っているそうで、その当時の門なのかもしれません。
いずれにしても、家が移築されたことは確認はできませんでしたが、伝承については、一定の裏付けがあったことになります。
※ 写真は、福田家の方にお断りして、撮影させていただきました。
かすみがうら市 「助六の首塚」を史跡として市の文化財に指定しており、門の前に説明文が掲示されていました。
『助六の首塚
ここ、大字下佐和の福田家墓地にあり花崗岩による基部周径百五十センチ、高さ四十センチのすり鉢を伏せた形のものである。
これは、安永七年(一七七八)十二月、間接には荷重な負担、直接には助郷重荷に対する百姓一揆の代表となり、禁制を犯して江戸屋敷へ強訴に及んだため、打ち首獄門となった義人福田助六の首である。
助郷・・・・宿場の人馬不足を援ける郷村
平成六年四月一日 かすみがうら市教育委員会』